その先が不必要な場合
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
万葉集にある山部赤人の歌。教科書に載っていたのでうろ覚えの人も多いだろう(オレもだ)。
現代語に訳すと、
田子の浦から出てみたら富士山の山頂には真っ白に雪が積もっていたよ
って感じ?
もう一首。
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
藤原実定。平清盛とかのスーパースターと違って、ちょっと地味だが、新勢力と旧勢力の橋渡し的な骨が折れる仕事をこなした調停型人物。家柄はいいけど「あなたとは違うんです」とは言わなかったようだな。
現代語に訳すと、
ほととぎすが鳴いたほうを見てみるともうほととぎすはいなくて有明に月が出ているだけだった
みたいな。
字面のとおり訳すとなんともつまんねえものだ。
短歌の鑑賞は、それを詠んだ状況などから心境を察し、行間を想像力で補完するのだ。
国語の授業などで「~ものだなあ!」とか先生が訳して違和感バリバリなときがよくあったよな。
いや、富野氏の言うこともわかるんですよ。粗製濫造される昨今の萌えアニメ、売れるからってサラダだけ作ってる若手のシェフをチェーン店のオーナーシェフが「ステーキも作れ、バカヤロー」と叱るのは当然のこと。
でもたとえば、『けいおん!』の場合。原作が4コママンガ。つまり、正月に、見たこともない野球選手が見たこともないグラドルとデュエットしているテレビ番組をBGMに、こたつでみかんをパクつきながら読むのが正しいような、そんな力を抜いた作品をアニメ化して、そしてその味を保ったまま放映しているのを「くだらん」というのはいかがなものかと思うわけですよ。富野氏じゃなくて2ちゃんとかでの論評のことだけど。
『けいおん!』が4コママンガであるのは伊達じゃなくて、ただ萌えてることを目的としているから。連綿とつながるストーリーや掘り下げられた人格、ドラマじゃなくて、記号化したシチュエーションで「かわいいね」「うん、かわいいね」という、そのことだけのために成り立つことが可能だから。
つまり作品のジャンルとして「萌え」が到達点でも一向に構わないんじゃないだろうかと。
物語性を重視する骨太の作品、そりゃないと困る。萌えから燃えに移行するような、ね。
だけど、『けいおん!』のような作品にそれを求めるのは間違いじゃないか。
短歌や俳句に
で? っていう
ようなもんじゃないか。芭蕉に「池に飛び込んだカエルはどうなった?」と聞くようなものだ。
ストーリー=時間を登場人物といっしょに疑似体験していく小説のような作品と、その場面での感情へのシンパシーが重要な詩歌的な作品を同一線上で語るのは変だろう?
もちろん、全体を見回して片方に、しかも商業主義に偏っていることへの批判は当然のことだけど。
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